ハイリー・センシティブ=わたし

自縄自縛から解放されたい一人芝居

失敗するのが怖いから完成させない症候群  

 失敗するのが嫌い。失敗を人に見られるのが嫌い。そういう人は少なくないと思う。何を隠そう、私はいま、その恐怖の真っ只中にいる。

 人は言う。「失敗したっていいじゃないか」「うちの会社は失敗から学ぶ人を尊重するよ」。だけれど私からすればそれは、違うのだ。失敗というと何か果敢なチャレンジをした結果——0か1かのブーランジュな戻り値をイメージする。だけれど、私が恐れている失敗は多分そのもっと手前、チャレンジする前段階にある。

「なぜこの程度のものしかできない」と思われるのが怖い

 簡単にいえば、依頼された作業を完成させられないのである。

 私は数か月前に転職して現在の会社に入った。いま完成できない作業は、前職で一度たりとも遂行したことのない内容だ。いわゆる「ビジネススキル」一式の類で、ここではそうした能力を当然のように持ち合わせていることを求められる(のだろう、と私は認識している)。私はここで10年以上働くのだから、当然これを機に身につけなければならない。だけれど今、それを告げられてからかれこれ1ヶ月以上がたとうとしているのにも関わらず、成果物を提出できていない。上司は業務量を考えれば大変な時間をかけて教えてくれFBもくれるし、足りないツールをあてがってくれる。けれど、私はそれに応えられない。未だに要件がわからない。当然、成果物の焦点はぼやけるだろう。そうして何も作らないまま、今に至っている。

 「(面接であれほど言っていたのに)なぜこの程度のものしかできない」「こんなに出来ないとは思っていなかった。失望した」「こんなに教えたのに吸収が遅い」と思われるのがひどく怖いのだ、と思う。失敗を避けるために何もしないという行動を選んでいる。失敗するのが怖いから完成させない症候群と私はこの状態を定義付けて、自縄自縛に陥っているようだ。思えば今回に限らず、私のフォルダには書きかけの小説がゴマンとある。

中途入社の異邦人

 ただ、こうして文章化してみると果たして私だけが悪いのだろうかという疑問もある。

・したことがないのだから失敗して当たり前ではないか

・そんなに早く吸収できるわけ無いではないか

・上司は果たして必要な知識を適切にインプットしているだろうか?(私がきちんとそのインプットを引き出すトライをしているかの問題以前に)

 言い訳だろうか? どこまで聞いてよく、どこまで自分で調べるべきかの区別が私にはまだつかない。会社の―とくに金回りの仕組みもよくわかっていない。最近ようやくわかったのは、彼らが口酸っぱくスライドの前段に書けという「背景」 とは、事業戦略・予算差配のどこに位置づけられるのかを明確にしろ、ということだ。これまでの私にとっての「背景」はマーケットだとか読者ターゲットだとか、類書の売れ行きだとか、もっとざっくりとしたニーズのことだった。

 要するに、求められているものがわからないのだ。同じ言葉を使っているのに異言語を話しているようだ。それさえわかれば私はもっとうまく動けるという確信がある。だけれどそれをどう聞いてよいのか、会社の作法から外れていないか、聞けば教えてちゃんだと思われないかという無限後退を脳が始める。

 結局のところ、さきほどと同じで「なぜこの程度のものしかできない」「こんなに出来ないとは思っていなかった。失望した」「こんなに教えたのに吸収が遅い」と思われるのがひどく怖いからなのである。結局のところ、自分のプライドの問題に帰結するのだろう。

 たしかに私は彼らの求めていた人材要件から少し外れていたかもしれない。能力も足りていないのかも入れない。だけれどそれを埋めるのは自分であって、ここで止まるよりは何かしらの完成品をみせるべきなのだ。

 未完成のままだとヘラヘラ笑っているだけでは、ほんとうに「その通り」の人間になってしまうだろう。まずは「やるべき」と思うことをぶつけて、それからほんとうの意味での失敗をしなくてはいけない(と私は毎回自分を奮い立たせるしかない)。現状は、当たって砕けるの当たってすらいない状態だ。

 自分のことしか見えていない文章から抜け出せないがひとまずはここで終わる。問題は・中途入社の適応・認知の歪み・コミュニケーション能力の三点ほどに整理できそうだけれど、そうするのがこのブログの目的ではないので無秩序のままとする。だけれど、一つの大きな問題として、中小企業と大企業の考え方の違いがありそうだ。いずれこれについては書いてみたいと思う。